メディア掲載情報

メディア掲載情報

2025 年のメディア掲載情報

2025年8月発売・発行・公開の雑誌等メディア掲載情報です。
ぜひご覧ください。

2025年8月20日発売 モーストリー・クラシック(9月号)

ショスタコーヴィチ交響曲第7番  《レニングラード》 相次ぎ合同演奏 藤盛一朗

(前略)第3楽章では、中間部のトランペットの吹奏が耳を引いた。ギャロップのような疾走感のある弦のリズムに乗り、高らかに主題をうたい、それをまた第1ヴァイオリンが感動的に受ける(練習番号131)。「くじけるな。希望はある」というばかりの力強さ。終楽章でも、コントラバスが表出力を高める(同187)ことで、終結の希望の確かな存在を実感させる。あとから楽譜を確かめれば、先行するバスクラリネットやチェロとともに、コントラバスにはエスプレッシーヴォと指示がなされている。名フィルの楽員が主導するこうした部分での細やかな表現を通じて、演奏の色合いと説得力は増したのだった。

(藤盛一朗◎本誌編集)

2025年8月18日発売 音楽の友(9月号)

Reviews & Reports Concert Reviews 演奏会批評(6月14日開催〈第535回定期演奏会〉)

年間のテーマは「肖像」。広上淳一を指揮に迎えた6月定期は「師の肖像」と題し、前半では広上の師である尾高惇忠の作品が演奏された。まず、もともとはピアノ連弾曲として書かれた《音の旅》から5曲。たっぷりとした豊かな響きによって愛らしく親しみやすい音の世界が広がった。続く《春の岬に来て》では名古屋大学コール・グランツェが登場。子音の明確な発音とまっすぐ通る歌声が清々しく、各曲の個性の描きわけもはっきりとしている。とりわけ、たおやかな抒情漂う最初の3曲の後の〈北の海〉の激しい情念、〈やがて秋〉の大きな起伏、〈子守唄〉の言葉に込めた想いの強さなどが確かな表現力を感じさせた。(前略)

(小沢優子)

2025年8月15日(金) 読売新聞(夕刊)

名古屋フィルの「ショスタコーヴィチ・メモリアル」…ヴァイオリン協奏曲2曲の妙味伝える独奏と響き

ヴァイオリニスト荒井英治がショスタコーヴィチの協奏曲を二つ演奏する、まさに「荒行」とでもいうべき企画。

 まずは「第2番」の冒頭から、独奏者の方針は明らかだ。刺激やケレンとは対極の丁寧さで曲を扱うこと。ガリッとした雑音を排した弓使い、抑え目のヴィブラートを駆使して、どの音域でも驚くほど滑らかな音色をホールの空間に放ってゆく。かくしてこの偽古典的な音楽の、古典的であるがゆえのアンバランスが端正に描き出された。

 高関健と名古屋フィルもまた同じく。音楽がいきりたつ箇所でも、響きの角にほのかな丸みがある(ホルン独奏のなんとまろやかだったこと!)。もちろん急速な第3楽章であろうと、「アレグロ」の表記に甘えて興奮に身を任せたりはしない。

 よりドラマティックな「第1番」でもつくりは同様。わずかに第3楽章終わりのカデンツァで、一瞬のパッションが独奏者をとらえたように見えたけれども、急速な第4楽章に入るや否や、それを恥じるかのように、すっかり平静を取り戻している。見事な 豹変ひょうへん ぶりなのだ。

 興味深かったのは、こんなふうに演奏されると、ショスタコーヴィチの仕掛けたオーケストレーションの妙味が細部まで伝わってくること。ここでチューバを、ここでハープを、ここでコーラングレを重ねる意味がいちいちよく分かる。結果として浮かびあがってきたのは、ソ連という国家のなかで面従腹背を強いられた悲劇の作曲家ではなく、抜群の技術を持ったモダンで冷徹な作曲家の姿だった。

 ちなみに両曲のあいだに挟まれた、シチェドリンの小曲は 洒落しゃれ たリフレッシュになったが、これも荒井のアイディアとのこと。すみずみまで 緻密ちみつ に設計された演奏会なのだった。(音楽評論家・沼野雄司)

――9日、名古屋・愛知県芸術劇場コンサートホール。

PAGE TOP